龍池山 蔵泉寺(ぞうせんじ) 周智郡森町三倉田能




龍池山 蔵泉寺(ぞうせんじ) 周智郡森町三倉田能

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周智郡森町の奥深く田能地区に蔵泉寺(ぞうせんじ)があります。

ここ蔵泉寺には静岡県の文化財「大般若経巻物600巻」が

寺宝として保管されていることで有名です。

大般若経には室町時代、現時の落人

「源三位光盛」が納めたと記されている。

目の前が崖になっており本堂の全景が写せない。

寺務所らしき建物は建て替えられている途中です。

田能天王社大般若経

14世紀は、1333(元弘3)年の鎌倉幕府滅亡、
後醍醐天皇による「建武の新政」・南北朝の争乱と合一(1392<明徳3>年)と
次々に大きな事件が起こった。
町域でもいろいろな動きがあった。
飯田荘加保村等の地頭であった備後の山内通継は、
足利尊氏軍に従い、各地を転戦した。
のちの飯田郷領主山内氏はこの所領を受け継いでいる(系譜的関係は明確ではない)。
1351(正平6)年周防国(山口県)の常陸親王(南朝の皇子)の許に
一宮社の関係者と思われる
「一宮(いちのみや)源蔵人大夫(みなもとのくろうどだゆう)入道(にゅうどう)」が従っている。
また、この頃一宮庄大田郷(おおたのごう)一藤名(いちふじみょう)は少貳(しょうに)氏の
所領となっている。
この子孫はのち、武藤氏と改称、室町幕府奉公衆となる。
南北朝期の1384(永徳4)年〜1387(嘉慶元)年にかけて、
三倉郷 田能 ( たのう ) 「天王社」の大般若経600巻が書写された。

これは現在町域に残っている確実な最古の文字資料で、
御経を書写した人物・寺社名・所在地名・金銭等を援助した人物等が
記載されており貴重な資料である。
大般若経は災いを除き、天下太平・国土安寧などに効力があると信じられ、
中世では転読(てんどく)が社寺の年中行事に組み込まれていた。
この頃、岩室寺や一宮庄天満宮でも大般若経書写されていた。
大般若会は、その後も行われ、人々身近な現世利益(げんぜいりやく)を
祈念したのであろう。
この時期、遠江の守護は今川氏であった。
今川氏は守護権限を最大に活用して、遠江の武士を権力機構に組み込んでいった。
やがて、15世紀初頭、守護職は斯波氏(しばし)に交替し、
以降、1世紀にわたる支配が開始された。

寺宝 大般若経 巻物 六百巻

蔵泉寺には、大般若経巻物六百巻が寺宝として大切に保管されている。
この経典が現在のように有名になったのは、それほど昔のことではない。
山田探道和尚が当山の住職となって以来、般若経の奥書きや
古老の口伝え等により、大般若経の書写の経緯を調査している時、
たまたま県の調査員の知るところとなり、調査の結果、
その歴史的な価値の高いことが判ってきた。
やがて県の文化財の指定となり、その名声はとみに世に現れるようになった。
この大般若経の筆写の由来を尋ねると、
今を去る六百有余年前、室町時代の至徳元年(一三八四年)源氏の落人、
当村牛頭天王宮の常住源三位光盛(戒名 道圭)が勘進檀那となり、
大般若波羅蜜多経を書写し、「御倉郷田尾天王宮」に納めたと、
経典の奥書きに記されている。
書写しに当たっては、十数名の僧や信者が名を連ねている。
いつの時代か経典は蔵泉寺に移され、現代に至っている。
この経典は。昭和三十三年四月、静岡県の文化財に指定された。

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