陸奥国一宮 石都々古和気神社・福島県石川郡石川町下泉

福島県石川郡石川町下泉に鎮座する「石都々古和気神社(いわつつこわけじんじゃ)」です。
延喜式では式内社にして「陸奥国一宮」、旧社格は郷社です。
御祭神は、主祭神に「味秬高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)」
配祀に「大国主命」と「誉田別命(八幡神)」の二柱をお祀りします。
主祭神の「味秬高彦根命」、これは福島県東白川郡棚倉町に鎮座する、
「都々古別神社(馬場)」・「都々古別神社(八規)」二社と同じであり、
「都都古別神社(都都古和気神社)」から分祀されたものであるという説もあります。

石都々古和気神社は「八幡山」と呼ばれる山の頂にあります。
創建の年代は不詳ですが、八幡山には磐境が多数残っており、
古代から祭祀の地とされ、信仰されてきたことが伺えます。
延喜式神名帳に記載される「陸奥国白河郡 石都都古和気神社」の論社であり、
この記述が書物における 石都々古和気神社の初見とされています。
石都々古和気神社 境内案内図
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永承6年(1051年)、源有光が源義家の安倍一族追討の軍に加わって功績を挙げ、
代官として石川の地を賜ります。
源有光は康平6年(1063年)にこの地に移って名を石川有光と改め、
八幡山山頂の東側に「三芦城(石川城)」を築城します。
以降25代528年間にわたって石川氏の居城となっておりましたが、
天正18年(1590年)の奥州仕置で小田原征伐への不参を理由に、
石川氏が豊臣秀吉の命で改易処分となった際に廃城となりました。
治暦2年(1066年)、源氏の氏神である石清水八幡宮の分霊、
(八幡神・大国主命)を勧請して「石都々古和気神社」に合祀されました。
参道と飛翔狛犬(中央)
北須川に面した神前通り沿いに表参道。
向かって右手に「まちなか駐車場」、左には社務所があります。
参道には「飛翔狛犬」、
名工小林和平の作によるもので、石川町指定文化財に指定されています。
石都々古和気神社の狛犬 案内板
石都々古和気神社御仮屋の狛犬
石川町指定 有形文化財(彫刻・美術工芸品)
小林和平・昭和14年(1939)製作
一対(阿像・吽像)
阿像・吽像とも、蹲踞型。吽像には1匹の子獅子が寄り添っています。
「石都々古和気神社御仮屋の狛犬」は、本町出身(旧沢井村)の石工・小林和平が58歳の時に造立したものです。伝統的な「蹲踞型」でありつつも、単なる「お座り」の像ではありません。阿像においては、後脚から頭頂部にかけて螺旋を描くような体の捻り、異常なまでに張り出した胸筋、側面から見ると蛇が鎌首を持ち上げたような体のしなりと、従来の阿像には見ることのできない造形です。透かし彫りや装飾を排しながらも、石造物という静物を生き物の如く表現した究極の作品と言えます。また、吽像も「蹲踞型」の形態を取りながら、幼い狛犬を侍らせ神獣としての神々しさと母性に満ちた慈愛の造形となっています。阿像の厳しさと、吽像の優しさのコントラストにより、阿像・吽像ともにお互いの造形美を引き立てており、二体一対となることで成立した狛犬造形の傑作と表現しても過言ではありません。全国的に見ても極めて美術工芸的価値の高い、貴重な文化財と言えます。

表参道から「石都々古和気神社」を目指すと、石段を登ることになりますが、
参道とは別に本殿横まで自動車の通れる裏道があります。
胡桃下意成神社
参道の階段途中には「胡桃下意成神社(くるみしたいなりじんじゃ)」
以前、ここには胡桃の古木があり、その下にお稲荷様が祭られていたそうです。
胡桃の下のお稲さまということで、胡桃下稲荷と呼ばれています。
鳥居
天狗石
八幡山(石都々古和気神社)は古くから信仰されている山岳信仰の聖地、
祭祀遺跡の跡地でありました。
神籬岩
境内には多くの磐境「磐座」が点在しており、
そのため考古学的にも大変重要な場所とされています。
社殿へと続く参道には、天狗石・亀石・屏風石など、
様々な名が付けられた巨石を見ることが出来ます。
屏風石
匂玉岩と天竜桜
巨石の点在する参道を登り切ると、ようやく拝殿が見えてきます。
石都々古和気神社は、「都々古別神社(馬場)」・「都々古別神社(八規)」と同じく
主祭神に大国主命の子である「味秬高彦根命」をお祀りします。

石都都古和気神社
当社は石川町の中央の通称八幡山に鎮座し、境内及び神社森は三芦城の跡地として県及び町の史跡に指定されており、約一万年以上前から山岳信仰の場として山そのもの、又参道両側に点在する磐境(巨石)が信仰の対象として、古代の人々に崇敬されていたと思われるが、それらを裏付ける文献は残されていない。当社が始めて文献上にみえるのは延喜式年間(西暦901年)に全国の神社を調査した時である。その時に確認された神社を延喜式内社と呼び、当社もその一社に数えられている。
京都の住人、初代福田安芸守源有光(初代石川有光)は永承六年(1052年) 父頼遠と共に源頼義・源義家に従って、奥州の豪族安倍氏追討に加わり、その功により奥州仙道のこの地を賜った。康平六年(1063年)源有光はこの地に移り住み、名を石川有光と改めた。石川有光は、四方を山々に囲まれ、阿武隈川の支流今出川が東より南を巡り、磐境(巨石)が重なり自然の要害となっているこの八幡山(当社鎮座地)に三芦城を築城した。
治暦二年(1066年)石川有光は源氏の氏神である京都石清水八幡宮の御分霊(大国主命・誉田別命)を当社に合祀した。その日が旧九月十九日で、この時よりこの日を例祭日と定め、毎年旧九月十三日から十九日までを例祭期間とした。この時、当社第三十四代宮司 吉田英高氏の祖先(有光の第九子有祐が外祖父神祇職吉田兼親朝臣の養子となり、吉田左衛門尉と名を改めた)が当社神官となった。例祭日も時代と共に変わり、昭和五十年より新暦の九月十一日から十五日迄となり、平成十五年より九月の第二土曜日に例祭式、同日夕刻より翌日夕刻迄が渡御、第二土曜日前三日間を参篭とした。 公式HP
石都都古和気神社 社殿

石都都古和気神社 由緒 (旧郷社) 陸奥の国一の宮
御祭神
味秬高彦根命 (本土創造・農工業の神)
大国主命 (商売繁盛・新願成就の神)
誉田別命 (戦・武運長久の神)
石都々古和気神社は延喜式内社のひとつに数えられる古社で、古くから山岳信仰の聖地として多くの方々に信仰崇敬されてきた。又、全国的にも数少ない祭祀遺跡(さいしいせき)の跡地として、考古学的にも大変重要な遺跡と言われている。
約一万年位前から信仰されており、多くの磐境(いわさか)が山々に点在し、屏風岩、船形岩、亀石、天狗石、石門(鳥居)、更には三種の神器と言われる剣(剣石)、玉(勾玉岩)、鏡岩等がある。 古代、この地に於いて多くの土着民が集まり、自然崇拝や太占(ふとまに)、探湯(くがたち)等の神事が行われ、一年間の吉凶や物事の神意を占ったとされる。
京都の住人・福田安芸守源有光(ふくだあきのかみみなもとのありみつ)が永承6年(1051)奥州の安倍一族追討の軍に加わり(前九年の役)多大な功績を挙げ、その後、朝廷の命により、八幡太郎源義家の代官となり、この地を賜った。
そして康平6年(1063)この地に移り、名も石川有光となり、更に治暦2年(1066)石川有光の守護神である京都石清水八幡宮の御分霊(大国主命・誉田別命)をいただき、当石都々古和気神社に合祀(ごうし)した。
この日が旧9月19日であり、この時より、この日を大祭日と定め毎年9月13日から19日まで大祭が執り行われ、御神体を納めた神輿が氏子等の手により、山頂神社より、ふもと馬場町御仮屋にお下がりになり、奉納行事や流鏑馬(やぶさめ)が行われていた。石川有光は他の外敵の侵入を防ぐために四方を見渡せる神社神域の一角に自然の山城・石川城を築いた。この地が湿地帯であり、無数の芦(あし)が生え茂っていたことから、後にこの城は三芦城(みよしじょう)と名づけられた。
石川家はその後、天正18年(1590)、第24代といわれる石川昭光が小田原城攻防の際遅参し、豊臣秀吉の怒りをかい、この地を没収されるまで約527年間この地を支配したといわれる。石川昭光の退城により、この三芦城は廃城になったが、当時、重職にあったとされる溝井家、丹内家、又、神官の吉田家が住民と共に永く伝統祭事神事を守り続けてきた。現在、この神域は中世の山城としても遺跡に指定され、空堀、狼煙台(のろしだい)、見張台、本丸跡、土塁等がある。
現在は新暦の9月・敬老の日の前日―土曜・日曜の両日に例大祭が行われ、町民は常に歴史と伝統を重んじ、古式床しく、お祭りを守り続け、今日に伝えている。
観光・歴史
当神社は紫陽花(あじさい)と紅葉の名所として有名、その他水仙、ロウバイ、山桜、サンシュユ等の花々
石川町は「いで湯」と「桜」と「遺跡」の町として全国的にも知られ、又、明治初期、東北初の政治結社「石陽社」が設立され、神官・吉田光一を始め、河野広中や多くの自由民権運動家が活躍した町としても有名である。
平成22年3月 記
拝殿
石都々古和気神社 文化財
福島県指定文化財「石都々古和気神社の鰐口」(美術工芸品)
応永30年(1423年)に石川持光が奉納した銅製の鰐口。1953年(昭和28年)10月1日指定。
石川町指定文化財
「石都々古和気神社の狛犬 1対」(彫刻)
1930年(昭和5年)に石工の小林和平が製作した「飛翔獅子」と呼ばれる一対の狛犬。2016年(平成28年)5月指定。
「吉田光一文書」(古文書)
石都々古和気神社の宮司かつ初代石川町長の吉田光一が所有する古文書。1991年(平成3年)3月25日指定。

本殿
祭礼
八幡神を当社に合祀した日は旧暦9月19日であり、それ以降、当社の例祭はこの日に行われるようになった。山頂より神体を納めた神輿が氏子の手によって麓の馬場町御仮屋に下り、7日間にわたって流鏑馬などの神事が行われていた。1975年(昭和50年)には祭礼日を新暦の9月11日から15日までに改めた。2003年(平成15年)には祭礼日を新暦の9月第2土曜日に例祭式、その前3日間を参篭と改めた。

石都都古和気神社
陸奥国 白河郡鎮座
【現社名】石都都古和気神社
【住所】福島県石川郡石川町下泉296
北緯37度8分42秒、東経140度27分4秒
【祭神】味耜高彦根之命 誉田別命 大国主命
【例祭】9月14日 例大祭
【社格】旧郷社 陸奥国一宮
【由緒】延暦年中(782-806)福田利人が創祀
天喜年中(1053-58)福田有光社殿造営
天明2年(11782)造営
明治8年郷社
祖霊社(左)多賀神社(中央)諏訪神社(左)
本殿向かって左側には三社の境内社
左から、「祖霊社」「多賀神社」「諏訪神社」
額殿
拝殿の右手には額殿と拝殿の改修記念碑が建ちます。
石川(三芦)城跡
八幡山は、「石川(三芦)城跡」でもあります。
石都々古和気神社の境内には城址であることを示す遺構が数多く残っています。
石川(三芦)城は、平安時代後期から戦国時代にかけて
石川郡を支配していた陸奥石川氏の居城でした。
天正18年(1590年)の奥州仕置により、小田原征伐に参加しなかったことを理由に、
石川氏が豊臣秀吉の命で改易処分となり、廃城となりました。
当時の石川氏当主の昭光は、伊達政宗の叔父にあたっていたことから、
石川氏は伊達氏家臣となり、伊具郡角田城主(2万1千石)、そして伊達一門として残ります。

三芦城跡案内記
この山を通称「八幡山」と称しいわゆる三芦城跡である三芦城は石川氏代々の城で源有光の築いたものと伝えられ、康平6年(1063)頃より天正18年(1590)頃まで537年間居城した処で海抜約320mの高台本丸後西側は石都都古和気神社が鎮座し中世の城跡が殆ど原形のまま保存され価値のある史跡といわれている。
今その由来を略述すれば次のとおりである。初代源有光は永承6年(1051)父頼遠に従って陸奥の豪族阿部氏追討の軍に加わり後その功により従五位安芸守に任ぜられ奥州仙道七郡の地を賜りこの地に住んだ。
はじめ藤田城を築いたが更に適地を求めこの山に築城、康平6年頃この城に移った。城の本丸は縦50間、横180間、二の丸はこれにならい高さ130尺城は麓の川自然の要害となり形勢雄偉名づけて三芦城という。名も石川有光と改め八幡神社を勧請して石川家の護神とし崇敬篤かった。爾来この山を八幡山と称する。25代昭光の代天正18年豊臣秀吉小田原城攻めの際参向に遅れ領地没収城断絶。甥伊達政宗を頼り城を出た茲に石川氏の偉業は一朝にして消えたのである。その後昭光は伊達家に居、政宗より志田郡松山館及び菜地6000石を与えられ慶長3年伊具郡角田館に移り一万石となる代々角田に住し以て現在に至った。
社務所
石都々古和気神社
所在地 〒963-7858 福島県石川郡石川町字下泉296
電話番号 0247-26-7534
駐車場 有り(まちなか駐車場)
社務所受付 9:00〜16:00 (※12:00〜13:00はお昼休み)
アクセス あぶくま高原道路「石川母畑IC」より約15分
最寄り駅 JR水郡線「磐城石川駅」より徒歩約10分
御朱印

